2021/10/10 18:14

 昭和三十年代、奥能登観光幕開けの発端地となった名勝天然記念物・曽々木海岸地区にとってかわり、四十年代半ば頃から輪島の朝市が旅行者の人気の中心となってきた。朝市を見て輪島塗の工場見学に立ち寄りショッピングをする、という旅行パターンが増えていた。

観光客の増加のあとを追うようにして、石川県当局を中心に道路の整備がすすめられた。道路の整備に比例して大型観光バスが増えた。

輪島の町の目抜き通りに店を構える稲忠漆芸堂では、すでに駐車場が間に合わない状態に追い込まれていた。屋敷も隣家のご理解をいただき譲りうけ、それなりに店舗も駐車場も広げてきた。にもかかわらず観光シーズンや五月の連休には、極端に駐車場が不足した。やむなく路上駐車ということになり、近所の人々に多大な迷惑をかけることにもなった。

となり近所こそ最も大切であった。忠右ェ門夫妻が輪島に移り住んでから、

四十年近く経っていた。その間、稲忠漆芸堂のある旭町、国道に面した中央通りの商店街の方々の寛大な理解がなかったら、とても観光バスの受け入れなどできる筈はなかった。

昭和四十五年三月十四日『人類の進歩と調和』をテーマに、世界七十七ヶ国が参加して行われた大阪の万国博覧会は、万博史上はじまっていらいの規模といわれた。まさに日本の経済発展を世界に誇示する絶好の機会であった。人気のパビリオンには長蛇の列が続き、二〜三時間も待たされることが当たり前という程の人気であった。高成長社会の証明でもあった。能登観光においても高度成長の波が押し寄せていた。

「今、鉄道を利用して能登を訪れる観光客は多いが、近い将来バスや自家用車が鉄道を圧倒する時代になるだろう」

中央から能登にみえる評論家の講演などで、そんな話を度々聞いていた。忠右ェ門は道路問題について、早くから並々ならぬ関心を抱いていた。日本での車の普及は異常といえるほど早かった。

鉄道を利用してきた観光客なら町中が便利だ。しかしこれからは車の時代になる。

この店では狭すぎるし、それに車の対応ができない。広い駐車場をもてる所へ進出しなければ、時代に置いて行かれてしまう。

忠右ェ門は次のステップを考えていた。

昭和四十五年、輪島市街地から東に一㌔ほど離れた塚田海岸にある、坂口幸吉氏の所有する店舗付土地を譲ってもらえることになった。坂口氏は輪島駅前で地元客にも観光客にも人気のあった"やぶ食堂"の経営者でもあった。

この物件はかって、坂口氏から施設の一部を輪島漆器組合が借り受け、漆器販売所を開いていたところであった。漆器組合ではその後昭和四十五年の四月に開かれた臨時総会で、売店や事務室、資料館などを含めた、本格的な漆器会館を組合事務所のおかれていた場所に建設する方向で、準備がすすめられていた。

塚田海岸は国道249号線の、輪島から曽々木海岸へのルート上にあり、奥能登観光には必ず車両が通過する場所であった。近い将来、バスやマイカーが中心になることは間途いないと確信していた忠右ェ門にとってみれば、なんとしてもここは必要な場所であった。

土地建物の取得と店舗改装だけでも、一億円は必要であった。中央通りの稲忠漆芸堂の営業状況を基準にしてでは、とても借金した場合の返済計画はたたなかった。

昭和九年にたんぽ小路の家を買うときも、大変な賭をしたものだった。だがあの時、迷いながらも、どうしても其処が必要だという確信があった。だから、無理と思えるほどの買い物をしたのだ。あの時、塗師屋をするためにはどうしてもあの土地と家屋が必要だった。今も全くおなじことだ。時代がちがってきただけのことだ。

忠右ェ門にとって、塚田の土地建物購入は再度の『賭』となった。

購入した建物を部分改装し、『稲忠漆芸会館』としてオープンしたのは昭和四十六年三月十五日のことであった。まだ周囲は田圃も多く、車両の入っていない時には、なにか間が抜けた感じがしないでもなかった。また、田植え時分の月夜には、蛙の合唱が賑やかに聞こえた。

忠右ェ門は高度成長経済の波及が、この地の漆器観光にも必ずくると、稲忠漆芸堂の別館として漆芸会館をオープンしたのである。通称を稲忠観光会館とよぶことにしたが、その後『稲忠漆芸会館』の呼称で統一をした。すこしでも金利が嵩まないようにと、保持していた漆芸の逸品なども手放した。なにがなんでも、この施設を軌道に乗せなければならなかった。

 

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昭和三十年代から五十年代半ば頃までの、能登観光の推進に大きな役割をはたしたものに定期観光バスがある。北陸鉄道と国鉄双方の協調路線として奥能登定期観光バスが、レール利用者の能登内の足となった。北陸鉄道はほかに和倉コースや金沢コースも走らせた。いずれも利用の高い路線であった。だが、一般の貸し切りバスが、東京や大阪、名古屋などの大都会から入ってくるのには、まだまだ遠隔の地であった。

「若い旅行者がどんどん入ってくる所は、その後かならず本格的な観光地となる。中高年齢層の旅行客があとから黙っていてもやってくる」

すぐれた民俗学者であり、この人ほど日本国内をくまなく旅行した人はいないだろといわれる、故宮本常一氏の観光理論であった。

昭和三十〜四十年代に若い旅行者がパイオニアとなった能登半島は、その理論からすれば、やがては全国から一般の観光客が訪れる筈であった。

稲忠漆芸会館では本店の稲忠漆芸堂といろいろな点で相違点があった。団体向きであり、食事や喫茶のできる、それも一時に大勢の人が食べられることが必須の条件であった。食事の対応には頭を悩ましたが、おもに輪島近在の小規模農業をしている家主婦らに来てもらうことで乗り切れた。実際この地の主婦らは働き者で、男顔負けのしごとをこなしてくれた。"能登のととらく"といわれる土地柄である。

「稲忠漆芸会館のオープンの時期は的を得ていたと思っていますが、多分にラッキーな面もありました。そのひとつが国鉄の定期観光バスの立ち寄りです。ぜひ、とお願いしたところ、いいでしょう、ということになり、それがまた定期観光パスの急成長時でした。あれは何時の日だったか、一日に国鉄の観光パスだけで六十九台も入ってくれたことがありました。父も姉もあきれるほど、びっくりしていましたよ」

稲忠漆芸会館のオープンには、家業にもどっていた稲垣民夫現社長の話である。

前年の大阪で開催された万博で旅行人口が倍増し、レジャームードが急激に高まっていたことも観光客の増加に拍車をかけた。

本格的に遠隔の地から貸し切りバスが入ってくるようになるまでの数年間、国鉄の定期観光バスが稲忠漆芸会館の救世主となった。

その後、全国的に高速道路の整備が進み、能登地区にあっても能登有料道路が全通した。関西・中京地区を中心として企画募集団体や、一般団体の貸し切りバスが主流となって入ってくるようになった。その間、小規模ながらも数度にわたって、稲忠漆芸会館は増築改装をかさね、今日にいたった。

「ここに出てやはり良かった。見込みに狂いはなかった」

数年後、稲忠漆芸会館が軌道に乗ったころに、忠右ェ門がポツリと語った。

塚田海岸に進出して、稲忠漆芸会館を開設したことは、逆に町の中の本店稲忠漆芸堂を活かすことにも繋がった。稲忠漆芸堂は輪島漆器の専門店として、また個人客がゆっくり立ち寄りできる店としての位置づけができたのである。

「稲垣さんは輪島漆器と観光を合体させた方であり、また能登観光の発展は道路の整備にあると、精力的に陳情活動などに力を入れた人でした。おっとりした外見に似合わず、先をよむことでは鋭い人でした」

能登の名門、大納言・平時忠の末裔にあたる上時国家の二十四代当主で、今は亡き時国御太郎氏が、生前に忠右ェ門の業績と人柄についてよく讃えていた。時国さんは長年、輪島市観光協会の会長をつとめた御仁である。

 

 

この前後の頃の、忠右ェ門の心の動きが窺える寸描を紹介してみたい。

 

金沢経済大学に入学した二代目の民夫社長は、その後、早く学業に就業させたいという父忠右ェ門の強い意向を受け入れて、中途で退学した。

家業が忙しくなることは、目に見えていた。実際つぎから次へと仕事に追われた。忠右ェ門は何事にも、自分自身が先頭になって進むタイプの人間であった。ちょっとした新しい機械を入れる事さえ、自らが試運転をしなければ気の済まない性格であった。機械の操作については、若き日の時代にモールス通信を修得した時の影響があった。塗師屋の仕事に観光客の受け入れが加わり、忠右ェ門は寝る時間さえ無かった。

従業員も増えていたが、塗師屋の親方としてこれだけは自分でやらなければならない、ということが三つあった。

一つは漆の買い付けであった。外見では良悪の識別がつかない漆は、自ら和紙に染み込ませて火であぶることによって漆の良悪を判別し確認した。

二つ目は木地の買い付けであった。地元で間に合わないものは、富山や岐阜に買い付けに出た。自らが直接山の中に入りこみ、貯木場で原木を確認してからでないと、仕入れることはなかった。漆と木地の善し悪しは、漆器の決定的な要素であり、その部分の仕事は工場長にさえ任すことはなかった。

そしてもう一つは夜中の"かやりとり"であった。漆が平均に乾くように、湿りをいれた風呂棚に納めた上塗りしたばかりのものを回転させる仕事であった。毎日欠かせぬ仕事で、家族が寝静まったころの仕事であった。

また忠右ェ門は毎夜おそくまでお得意先に手紙を書く習慣があり、深夜の二時三時になることも珍しくなかった。夜中の十二時までに書いた手紙を子息らが自転車で駅前のポストに投函に出た。翌朝郵便局に出すよりも一日早くつくのであった。

当然寝る時間もなかった。このような父親の姿を、民夫現社長は子供の頃からいつもみていた。

「父にはいつも叱られっ放しでしたよ。ほんとうに。父はよく言ってましたよ。お前が会社を経営したら、一ヶ月ももたんだろうと。自ら積極的に動きまわり、寝る時間すら持とうとしない父を見ていて、凄い人だと思いました。反面、正直いって畏怖のした。父の真似などとてもできないと思いましたね。だから、父にしてみれば自分に早く実務の仕事に着かせたかったのでしょう」

民夫現社長は昭和四十五年頃から五十年頃までの間、父の経営路線や、休むこともしない仕事への執着に対して、必ずしも同化できないものを心の隅に感じながら手伝いをしてきたという。

「年齢の違いも父とは四十五ちがいましたからね。叱られる度に、反省する部分と自分ならこうする、という思いが交錯し、父の後継者としての期待の大きさと不安がよくわかりました」

ゼネレーションのちがいを感じながらも、父のひたむきな仕事への姿勢には、ただ脱帽でしたと、十五年前を思い起こしての述懐である。


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----- 目次 -----

1章 故郷三河の稲垣家

 1-1 矢作川と稲垣家

 1-2 学問ひとすじ 祖父真郎

 1-3 人生謳歌、父隆三郎

 1-4 おいたち

 1-5 収蔵品の虫干し

 1-6 現代の稲垣家


2章 塗師屋への道

 2-1 クリーニング店に住み込み

 2-2 はじめて外商にでる

 2-3 輪島の地を踏む

 2-4 三重で漆器外商、そして結婚

 2-5 忠右エ門を名乗る

 2-6 輪島に移住し、塗師屋となる

 2-7 かけだし時代

 2-8 岩津のおてつさん

 2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る


3章 苦闘の時代

 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ

 3-2 行商三昧

 3-3 能登観光の黎明と水害受難


4章 漆器組合の理事長に就任

 4-1 塗師屋の仲間組織

 4-2 火中の栗

 4-3 組合再建への礎に

 4-4 高松宮妃殿下を迎える


5章 漆器と観光の船出

 5-1 観光時代の到来

 5-2 カニ族のたまり場

 5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設

 5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん


6章 逝去、子息らに夢を託して

 6-1 ボーリング場跡地を購入

 6-2 民夫社長を指名、会長になる

 6-3 七十四歳の誕生日

 6-4 病床でキリコ会館の開設を見る

 6-5 初秋に逝く

 6-6 没後十年、創業六十年